死生観

みなさんごきげんよう。2年ぶりにに投稿します。2年も経つといろいろと周囲の環境も変わってきた感があります。

コロナ禍は変わりませんが、コロナとの生活も慣れてしまい、消毒やマスク着用、団体行動、ソーシャルディスタンスやリモートワークなど、、、制限ある生活だと思ってたものが日常風景とかして、さほど苦痛では無くなったこと。最近はマスク着用義務緩和だとか言っても、国民のほとんどが外してない感じかな…(あくまでも私見ですが)

 

さて、今日のお題は『死生観』です。

 

昨年こら今年にかけて、最近やけに私の親類が寿命や持病で相次いで亡くなり、通夜、告別葬儀回数も多くなり喪服を使うことが増えてきました。

人が亡くなると過去の思い出がここぞとばかりに甦り、死者を弔い悲しみを遺族と分かち合い、葬儀がなければ合わないかもしれない、ご無沙汰で顔や名前もよく思い出せない親類と言葉がすぐに出てこない、そして、モゴモゴと「ご愁傷様です「お悔やみ申し上げます」と言った湿っぽい挨拶となる(-。-;

さらに慣れない焼香や香典、他参列者との挨拶などなど、、普段から葬儀マナーでもう少しまともにできるよう勉強しとけば良かったと後悔する。

 

全く疲れることこの上ないが、これは死者を弔う上での正式なマナーで社会人としての必要最低限の儀式なので今後の振る舞いで恥をかくことがないようにしていきたい。

 

前置きが長くなったが、ここからテーマに沿って話をします。先日の通夜での時に、改めて思ったのは、人が亡くなった時、その事実を受けいれない人と受け入れられる人がいる。

 

その事実を受け取れない人(受け取りたくない人)は、故人との間で言葉では言い尽くせない想いと無念、周囲やその環境を巻き込んだ悔やまれる気持ちだとか、人それぞれ。で『この人はまだ亡くなってない』『なんで死ななければいけないのか?』『何かの間違いだ』『後悔』『無念』とか言葉が並び、逆に、無くなった事実を受け取る人は、『寿命』『人は誰でも死ぬ』『病だったから仕方ない』『この人の分まで生きよう』とかの言葉が並ぶ。

 

宗教によっても死生観が違う。

例えば、空海が開祖の真言宗は、生、死、先祖、供養など死は他者で生きることを願い、他者は、自身の守神として共に生きることを願う。真言宗は、阿弥陀如来の浄土に生まれていくという。浄土宗は、念仏をとなえて阿弥陀仏の極楽浄土へ生まれゆくこと(往生)という。日蓮宗はお釈迦様になるために成仏するという。

宗教は奥が深いし、死生観の説明としては要領得らことはないが、共通してるのは、人が生きるというのは意味のある事であり、死後も意味があるという事である。むしろ死後のために生きてるし、その修行をしてると言った解釈が腑に落ちるかも。(この考え方、昔大俳優の丹羽哲郎があっでたなー)

なので、かくいう俺も子供達に『人はいつか死ぬ』『だから悔いの残らないよう毎日過ごさないといけない』などと、自分が聖人君子でもなったかのようにいうのである。

 

これはは個人の信心として持ってるので、人が亡くなった時に辛い事や悔いに苛まれる事も少ない。

しかし、当然死に方による。不慮の事故や事件などはこの信心に収めるのは難しいだろうし、自分として個人と向き合う時期や真に弔うのは葬儀とは別の形だろう。昔、“敵討”というのが法律として認められていた。これも、個々の死生観に基づく当時の国としての“配慮”ではないか。

 

というわけで、『死生観』というテーマは…

難しいテーマだった… 何か思いがあればこのテーマアップデートします。

 

みなさん、ごきげんよう